2009年12月27日日曜日

バトル・ロワイアルII 鎮魂歌

@未完成作品につき保留
@息子が撮った方の映画は駄作ですらなく糞

世界の深作欣ニの遺作として認知されてしまってるが、実際に深作欣ニ御大が生前直接監督として関わってるとされる場面は竹内力による“ホームルーム”シーンのみとされ、大概の馬脚を晒しているのはオタクな息子の方である。
正直、竹内力の件は物凄い。何度見ても面白いのである。ギャグなのかシリアスなのかその境界が早速曖昧にされる。『野望の王国』の柿崎の活躍を見てるときと同じような感覚に侵される。
ここで、虎の意を借る事となるが世界の三池崇史も『極道戦国志=不動=』のDVD特典において同じ旨を述べている「竹内力が凄い(中略)下手すりゃ深作監督の最高傑作かもしれないよね」のような内容であった。

さて、こうなってくると、深作欣ニが完全な状態で完成させた『BRⅡ』どのような物になったのだろうか?ブルース・リーの『死亡遊戯』のように研究されるべき作品である。
一先ず、独自研究という形で私の見解を残しておく。

1.製作までの経緯~愛と幻想のファシズムと9.11~

まず、製作発表の前から深作欣ニ氏の容態は悪化している。次で最後であると本人は早い段階から悟っていた。そこであの大問題作『愛と幻想のファシズム』の実写化を決意していたとされる。
結局最後まで拘ったバイオレンス映画の集大成とすべく、この題材を選んだのだ。
トウジに藤原竜也を起用という噂もあり、草案が纏まりかけていた折、9.11テロ事件が発生した煽りを受けて「テロリストを主人公とした作品は不謹慎である。」として企画が倒れたとされている。
それを知った時、小生はハァ?としか思えなかった、当の深作欣ニ監督はハァ?では済まなかっただろうが。
何が故に他所の国のドンパチで、こちとらの映画作るを止め無ければならないのか?
もし、これが……イスラム圏で起こったテロだったとしたら、ここまでの配慮を行う必要は無かったはずだ。
米国が傷を受けた事が大事件なのである。
『BRⅡ』にいわゆる反米色が強まったのは一本の映画を潰された監督の私怨なのかもしれない。
同時に、彼は折れなかった、より明確にテロリスト側(嫌味とばかりに米国のステレオタイプ)を描いた作品を世に送り出す事を決心する。『BRⅡ』の冒頭で「“スベテのオトナ”に宣戦布告する。」と嘯く七原は、深作欣ニの本音だったと思われる。(死後、脚本の改変が無ければ)

ここで、すべての“スベテのオトナ”とは七原からすれば、BR法のような理不尽を行う人々であり、深作欣ニにとっては商売の邪魔を行う米追従型社会という体制なのであろう。

なお、映画の出来がお粗末な故に、このセリフ「安っぽい反体制」として片付けられている。
深作監督の名誉の為に言っておく、七原は前作『バトル・ロワイアル』(『BR』)で生き地獄を味わった生き残りであり、彼が日本に対して反体制などと嘲笑される事を行うには十分すぎる動機があるのでは無いかと。物語としては全く問題ないし「お前も大人じゃねーか」ではただの揚げ足取りであり、見苦しい。
ただ、本作の七原がイスラムのテロリストかぶれなのは問題であった。それは後述する。


2.幼稚な反米なのか反米だから幼稚なのか?(少なくとも息子の映画は幼稚)

まず、竹内力が米国に攻撃された国を読み上げるシーンを分析しようと思う。既に笑える光景だが、どうにもコレが遺憾というか癪に障る人が多いようで、Wikipediaにも

>>深作のイデオロギーが加わりアメリカに爆撃を受けた22カ国(日本、中国、北朝鮮、グアテマラなど)の名称を上げるなど反米主義的な要素もあった。

と、本作の欠点として記述されている。

反米主義だから糞なのか?
反米主義の内容が安っぽい反体制だからだめなのか?

このシーンには続きがあり「人の命は平等なんかじゃありません!」そして「人間は、勝ち組と負け組に分かれます。貴方は勝ち組ですか?負け組ですか?」というセリフがある。

そもそも、22カ国中、もっとも多くの人命を奪われたのは日本である。
その日本人が拗ねたように「人の命は平等なんかじゃありません!」とのたまい、あたかも自身が勝ち組のように、「勝ち組と負け組に分かれます。」と堂々と発言。
それを竹内力がハイテンションかつ流暢かつ若干のオーバーアクションで熱弁する。

ハッキリいっておく、風刺としては100満点である。

だが、この後の息子の撮ったほうのがショーモなさ過ぎる。
「あの国を怒らせちゃいかん!」とかもうねぇ・・・

3.キタノシオリは何者なのか?

ベターだが、「テロの犠牲者として七原を許せない人物」に尽きる。
しかし劇中で喚きまわって「やっぱゆるします、だって主人公だもん☆」と、“観客を泣かせる感動的な現象(笑)”として流される。
ただし、息子が撮ったBR2は敵までもが「俺にだって女房子供がいるお!」と説明的に感動的(笑)で死ぬため(意味不明)、本件に限った事ではない。
前作では、死に際にはドラマを交えつつもリアルに抑えており、辞世の弁は殆どがモノローグとなっている。
欣ニ監督が存命ならばこの演出は生かされ、もう少し、殺伐とした心情が垣間見えたろうに。

また、キタノは七原が最初に殺した“オトナ”である。
もう少し因縁めいたものを盛り込む余地は腐るほどあった。


4.では、名作だったか?
答えはNO。
本作の問題点は、現実のテロリストと作中のワイルドセブンの整合性の悪さである。
そもそも七原が罰したい敵は、BR法が運用されながら知らんプリを決め込んでいる偽善者“オトナ”のはずだ。
だから、プロローグで都庁を爆破・粉砕・虐殺した。
(ここは、特撮シーンなのでほぼ、欣ニ氏の要望どおりと思われる。ホームルームと同様、シリアスとしてもギャグとしても、ものすごい)

間接的に米国が関わっている描写があるが、むしろソレが混迷をよんでおり、グダグダになっていく。
やはり、七原はそれらとは異なった反体制としての、反逆者としてのテロリストである必要があるのだが、劇中で明確に紛争地帯の武装勢力に影響を受けたとされている。

アルカイダなどのテロ組織も実態を探れば米国とは別の体制であり、無力な人々を殺戮する事を武勇と称えているヤクザどもである。

おそらく、監督存命でもこの点が改善されていたとは思えない。

そもそも、前作『BR』も正直、名作とは言いがたい。
メインキャストがどう見ても中学生には見えないのに、原作どおり中学生のままだし、 だれが生き残るのか丸解りだ。

だが、国産残酷映画の傑作である。
最近の監督は低予算を言い訳に、チープな残酷描写で笑いを撮る映画ばっかだ。(しかも既在の映像を真似てパロディーと言い訳する体たらく)
低予算しか与えられない身の程を知れよと、全力投球しろよと。
『BR』は爺さんがそれなりの予算を与えられながらも、残虐過激な映画を大真面目に撮ったのだぞと。

また、ある朝のニュースで、「撮影末期になって突然、アフガンでのロケを行った」と報道された。
もはや、アフガンでロケを行う体力など、病態の欣ニ監督には残っていない筈であり、ほぼ後付のラストである。だが、深作欣ニ氏は、七原が死ぬラストに難色を示していたとされている。もし、このラストが欣ニ監督の実現不可能な願望だったとしたら、やはり映画の出来は知れていた。
殆どコスプレのような衣装はどうにかなっただろうが、何故にアフガンを絡めるのだろう?

ただ、映画として致命的にリアリティーに欠け、感動的で美しい(イケメン)な死を盛り込んだような、息子の映画にはなっていない筈だ。
大きな破綻こそあれど、映画としてはリアリティーを保ちつつ、深作式バイオレンスにより蹂躙される登場人物、感動的というよりは無情な死の連続、前作同様に残酷映画の傑作となっていた余地はある。


4.異説として。

元々、クエンティン・タランティーノ監督が米国大統領役で出演する予定であった。
氏は、筋金入りのオタクであり深作欣ニの狂妄的信者であり、生粋のアメリカ人である。
この点から、BRⅡはアメリカ人など受け入れずに反米的内容を行う事はしようとしていなかったようとも考えられる。
私怨を含めて、冒頭のホームルームのような米国に向けて風刺を行おうと思ったのではいか?反米と風刺ならば、その意味合いは異なる。前者はインテリの世界だが、後者はデザインだ。
故にむしろ、観客の内半分を怒らせる不謹慎な映画を作る事が目的だったと言っても過言では無い。

前記の通り、残されたスタッフは、無き深作欣ニの遺志を汲んでアフガンロケを行ったのか、それとも脚本を書き直して行ったのか。
しかし、タランティーノによる米国大統領の実現は見送った。
何故だ?
「スケジュールが合わない」というのが通説だが、劇中の描写から察するに、米大統領はカメオ出演程度だったはずでは?
ここでも、脚本の改変があったのだろうか?
もし、タランティーノが大統領で「これから貴様等はなんの手助けも受けず、ただひたすら、死ぬだけだ。どこまで もがき苦しむか見せてもらおう。ぬがよい。」とか言ってたらギャグにしかならないだろうが、映画の異常さは際立った事だろう。 前作でもなんとか・アスカ・ラングレーの中の人が作品の異常さを盛り上げていた。

だが、もし、残されたスタッフが本作をギャグ扱いされる事を忌々しいと思っていたら・・・
深作欣ニの遺作を撮ることに酔っていたら・・・

感動的(笑)でリアル(どこが?)な反米映画、つまらない訳である。

2009年12月26日土曜日

近況

@最近、「超遠未来バイオレンス」の更新ばっかですが、ちょっと下心があって、完成を急いでいます。しばらくこんな感じですがお付き合いください。
@クリスマス、「深作欣ニ」祭りを一人で開催していたのですが「BR2」は深作欣ニの作品としてカウントすべきではない。
@同時にBR2は未完成作品として研究されるべき題材
@健太は、マイナーなエロ雑誌のレイプ小説のような悲惨な目に会って二度と日本映画界の敷居をまたぐな。
@開催した甲斐あってか、『いつかギラギラする日』のDVDを1500円で新品で入手しました。奇跡は必然によって引き起こされる物なのです。

2009年12月12日土曜日

復讐者に憐れみを

@おすすめはできません

平野耕太という漫画家がいる。氏のブログ(現在は閉鎖)でパチンコに関する話題があり、曰く「『冬のソナタ』だか『チャングムの秋』とか知らんから、CR『オールドボーイ』とCR『親切なクムジャさん』を出せや!」と、全面的に同意できる氏の作風からは考えられない建築的な提案に私は感激した。その後は、氏の考えたリーチ演出(オデスが餃子食うリーチ、トンカチで歯を抜くリーチ、漂白剤で毒殺リーチなど)が書き連ねられていた。
しかし、本作『復讐者に憐れみを』に関する話題は一切なかった。
本作と『オールド~』『クムジャさん』はパク・チャヌク監督による復讐三部作という“韓流バイオレンス”の触れ込みで日本では公開されており、業界でも屈指のオタクである氏ならば、間違いなく目を通している筈なのだが、その後のCR『シルミド』のいい加減な記事内容からどうにも意図的に本作に関する話題は避けている。

というのもメチャメチャに後味の悪い作品なのである本作。
いや、後味どころか最初から最後まで、嫌な嫌な復讐の、殺し合いの連鎖が描かれる。

『オールドボーイ』では無敵の肉体を手に入れたオッサンによる悪党どつきまくり。
『クムジャさん』では殺しぶりが必殺シリーズのようなギャグと化し、被害描写すらブラックユーモアの域であった。

本作においてはそんなものは微塵もない。電源機による拷問殺害シーンは、ギャグっぽいのだが、見事に滑っており、痛々しい悲鳴が淡々と映され、そこに運悪く出前を届けにきたオッサンすら無慈悲にも殺す。シャレになっていない。

それよりも後の二作との決定的な違いは、悪党が存在していない点である。強いて言うならば、聾唖の主人公から姉の手術費用騙し取ったギャングがいるが、悪党というにはちと弱々しい。騙される主人公も間抜けだった。しかし、姉の為に思考停止していたのだから彼を責めるもの酷。最終的に金策に困り果て、共産主義に傾倒するアレな彼女と共に社長の幼娘を誘拐。姉には、友人から預かったとして、身代金が届くまで一緒に楽しく遊んでいた「ぼのぼの」を見たりして。しかし、姉は誘拐の事実を知って自身病体が原因だと嘆き自殺。 主人公は遺体を木の根元に遺棄、そして自責の念に駆られている内に、誘拐した娘がキチガイに連れ回された挙句に川に投げ込まれる。(聾唖の為に気付けず)
父親は、悲しみのあまりに発狂。空虚な怨念の申し子となりて、警察に捕まる前に犯人を自ら殺害する事を決意。主人公は、ヤケクソになりギャングの根城を襲撃する。
襲撃の当日、父親は、主人公の彼女を殺害。負傷しながらも襲撃に成功し主人公だったが、待っている筈の彼女は既に死体袋に包まれていた。
絶望し、生気さえ失せた主人公、だが父親は、容赦なく彼に襲い掛かり、足の健を切り刻んで川に放り込む、ここで父親は主人公に悲痛な顔をして呟いた。

「おまえ、多分いい奴だ。だから、解るだろ?俺がお前を殺すのが。」

復讐を終えた父親だったが、思わぬ所から彼に刺客が向けられた。
刺客たちに滅多挿しにされ、見に覚えないの無い「天誅」の二文字を貼り付けられる。

苦痛にもだえ、呻き喚き泣き叫び苦しむ父親の眼前には、自らの手で解体した聾唖者の肉塊の詰まった砂袋があった。

END。
(その後スタッフロール中にも父親の呻き声が絶命するまで聞こえるという不愉快極まりない仕様である。)

復讐を描き、徹底的に不愉快になった映画の前例としてショーン・S・カニンガム、ウェス・クレイブンによる『鮮血の美学』がある。こちらは「最低映画館」の岸田裁月氏のレビューれ有名だが、こちらはまだ、殺される側が当然の報いであったし、ボロボロ傷ついた復讐者の悲しみ俯いた姿のラストカットに希望を見出せる余地があった。
本作はどうだろう?強烈な不幸と死の連鎖にはケータイ小説だのの“悲劇”性は無く、恐ろしいまでにリアルな物だ。だからといって特にメッセージ性や教訓の無いハードさ。構築された映像は洗練され、隙が無く完成度は復讐三部作中最も高い仕上がりなのである、だが誰が見ても得しない、そんな映画。